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昔の日本人はすごい

NHKを見ていたらと言いましても日本の番組はNHKしか見れないので・・・

戦前日本人がダバオに渡り広大なアバカ(マニラ麻)農園を作った話の番組を見ました。

CIMG0181s2.jpg



ウィキペディアから抜粋しました・・・



兵庫県出身でマニラに住んでいた日本人実業家、太田恭三郎はこの地に目をつけ、1903年、広大な土地を開発する許可を受けてアバカ(マニラ麻)とココナツのプランテーションを作り上げた。当時日本や沖縄から多くの労働者がマニラとバギオを結ぶ高原道路・ベンゲット道路の過酷な工事に従事していた。太田は工事で疲労困憊した彼らをダバオに誘い農園で働かせた。マニラ麻は船舶用のロープの原料として飛ぶように売れ、太田はベンゲット道路で労働していた沖縄県人のリーダー・大城孝蔵とともに、農園と工場をあわせた「太田興業株式会社」を設立、これが日本人による最初のダバオでの会社だった。

1910年代、日本人移民、とくに大城孝蔵の呼び寄せによる沖縄県からの移民が増加し、第一次世界大戦景気でロープも大いに売れたこともあり1916年には1万人の日本人が住むに至った。大戦後不況で多くの日本人がダバオを離れたが、沖縄県出身者はとどまり、1938年にはダバオに1万8千人住んでいた日本人のうち沖縄県出身者が7割を占めた。太田は激増する農園需要と日本人移民の居住地を満たそうとバゴボ人の首長インタルから土地を獲得し、この場所に多くの人がとどまるように「民多留(みんたる)」と名づけた。ミンタルは日本人町になり、日本人学校、日本語新聞、日本領事館、病院、商店、売春宿、仏教寺院、キリスト教会、神社などが作られた。周囲には日本の商社の支援を受けた大手農園・工場や、一から作った中小農園など多くの農園会社が林立しダバオ湾岸には日本人経営のアバカのプランテーションが広がった。またコプラ、材木、漁業基地、雑貨の輸出入なども日本人によって手がけられた。

一方バゴボ人の頭越しにアメリカ人官僚から土地を獲得する者が増えて現地人と日本人の関係が悪化し、第一次大戦景気の間の麻農園拡張期には100人以上の日本人が殺された。またアメリカ植民地政府は日本人社会の膨張と日本の南方拡大の欲望が結びつくのを警戒し、ダバオ日本人社会を満州国(マンチュクォ)にならってジャパンクォ、ダバオクォと呼んでいた。こうした緊張関係もあったがダバオの麻製造をはじめとした農業・商工業は発展を遂げ、ダバオ経済の半分以上は日本人が支えるようになった。フィリピン人は進んだ栽培技術を日本人経営の農園で身につけ、これがダバオの産業の基礎が農業になることに繋がっている。


フィリピンでアバカ(マニラ麻)は有名です。

その強い繊維で作った家具などが人気で海外にも輸出されています。

常夏の国フィリピンに似合う涼しいそうな家具は私も好きですが、ちょっと高くてなかなか買えないのが現状です。

jac140t-1-090625.jpg

しかしこのアバカを日本人がダバオで始めて広げたなんて知りませんでした。

昔の人は何もないダバオで苦労し頑張って農園を大きくしたのでしょうね、頭が下がります・・・

私も貧乏なんて言ってられません・・・

昔の人をお手本に頑張りま~す。

TJ-AAS-462.jpg


でもやっぱり貧乏・・・です。・・・泣



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